相良で祭りに遭遇

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相良町へ行ってきた。相良町は合併によって牧之原市の一部になっているけれども歴史的には牧之原市などよりよほど由緒ある地名である。


相良は賄賂政治で有名な田沼意次が所領したところでもある。田沼意次はかつては権勢を悪用して私腹を肥やした人物とされていたが、革新的な経済政策を行なった人物という見方もされるようになっている。

地元相良では相良藩内の街道や港などのインフラ整備とか地場産業の育成などを行い藩内を安定させた名領主であったと伝えられている。

人間の評価というものは時代や場所によって変わるものなのだ。


相良には他にも面白い所がある。それは「塩の道」の起点になっていることである。「塩の道」とは簡単に言えば塩を運んだ道ということなのだが、はるか古代から続く海と山を結ぶ交易の道であり、その起点が相良あたりである。

ここから遠州の中央部を北上して長野県の塩尻まで塩を運ぶ道なのである。


そういう由緒ある相良を訪ねたわけだが、ちょうど秋祭りの時期で市内の様々なところで子供達が引く山車に遭遇した。どこの神社の祭礼かはわからなかったけれども船を模した山車に女の子の囃子方が数人乗り込み合奏していた。

観光協会のホームページを見ると少し離れた場所にある飯津佐和之神社の御船行事のことを紹介している。この祭りも船をモチーフにした祭りのようで港町として発展してきた相良らしい祭りである。


塩の道、相良港の船、交易で栄えた相良らしい祭りの形態に農村の収穫祭とは異なるものを感じた。


土曜日の酒の反省

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酒を飲むということに弱くなった。

酒に強い弱いという尺度はその酒量の程度によるばかりではない。


同じ酒量を飲んでいたとしてもその酩酊具合で強い弱いを判別されることもある。酩酊でも最後まで踊ったり歌ったりしていれば酒に強いという評価になり脱力して座り込めば弱いという評価になる。


若い頃はたくさん飲んでしかも冷静(な様子)でいられのが格好いい飲み方だと思っていた。しかし酔えばそういう理性的と思っているハードルはあっという間に下がって、単なる酔っ払い野郎になっていることが大半なのだった。


ずっと酒好きで飲み会に誘われれば断ったことがない、というような過去だったような気がするのだけれど、たくさん飲んだ翌日の胃のむかつきと午前中の頭の中に霞がかかっている状況というのはなるべく避けたいと思いつつ注がれた酒をあおるのであった。注がれた酒は飲まなければならないと思っていた。


私の最近の交友関係は酒で広がってる。それは私が酒を飲める場にいる人々と選択的に交遊しているということの証でもある。ただ、無分別に飲んでいるわけではない、小原庄助ではないけれど酒を飲むにも費用がかかルわけで、その原資は限られている、だからむやみに飲む機会が増えているわけではない。経済の事情は私の肝臓の健康にいい影響を与えている。


ということで、酒に強い弱いを酒量で判定するならば私は酒に弱くなった。昔は一週間に一度バカ飲みした。酒に強かったような記憶がある。

今は、少しづつだけど毎日飲んでるからな。そういうのはどうだろ。

キーボード練習始めました

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keyboard_air mac.jpg秋の夜長の無聊を慰めるために楽器の練習を始めることにした。


多趣味で知られる和歌山の友人K氏は音楽関係ではハーモニカを得意としている。懐かしい歌謡曲をハーモニカで吹くと老人ホームの年寄りたちは大喜びするそうだ。そして私にもハーモニカを習えと盛んに勧める。何か楽器をやってみたいと思ってはいるのだがハーモニカは今ひとつ手にとる気になれないのだ。


そもそも、楽器の練習は音が気になる、特に習い始めの下手くそな練習音は雑音でしかない。そんなことで色々思い悩んでいたのだが、その辺のジレンマを解決する方法を思いついた。それはコンピュータでシンセサイザーのように音を出し、ヘッドホンでモニターすれば下手くそな音楽が外へ漏れる気遣いは全くない、ということである。


ということで押入れの奥にしまい込んであったMIDIキーボードとノートパソコンをつないで見ると簡単に音が出た。

キーボードは20年ほど前に息子に買ってやったものだしノートパソコンはずいぶん古いバージョンだが音を出すだけなら何の問題もないことがわかった。何でもっと早く気づかなかったのだろう。


さっそく無料のピアノ独習ソフトを試してみる。




そば撒き

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佐久間そば作り.jpgそば作り体験のコースに参加している。今年で4年目になる。

今日は畑にそばを撒いて耕運機で土を耕してそばの実が土か入るようにしてきた。毎年秋のこの時期にそばを撒くのだが手順も慣れてきている。


そばはおよそ60日で収穫できるので、このそば撒きから始まって、草取り、そばの花の鑑賞、刈り取りとはさ掛け、脱穀、そばを自分で打って食べる。そういう農業体験、そば試食体験をこれから年末まで月に2回ほど行っていく。


このイベントは佐久間という山村の住民と浜松の街中の住民との交流が目的。佐久間側からいえば人口流出と高齢化が激しくてどんどん寂れていく地区に人を呼び込んで活性化を図ろうという目的もある。


休耕地を利用してソバ畑にしている。我々はその一部のおよそ20メートル四方の広さの畑を任されてそばを作るのである。実際はこのイベントを主催している地元のNPOの人たちが土起こしとか雑草取りなどの大変な下仕事をしていてくれて、我々はイベント当日に現場へ行ってそば撒きとか刈り取りの真似事をしているだけといえば身もふたもない。


そこはまあ、交流が大きな目的の一つでもあるので、お客様扱いされているとはいえ、一緒に汗を流し作業することが大事なのである。

しかし何と言っても各イベントの毎回の楽しみは地元NPOのおばちゃんが手作りでもてなしてくれる昼食である。


我々が畑でそばを撒いている間に、畑横の広場の一角で昼食用のカレーが大鍋で作られて行く。

畑仕事が終わるとそこで昼食。カレー皿を手に雑談の花がさく。ジャガイモ、ニンジンなどのカレーの具は多分この先の畑で採れたものだろう。付け合わせの漬物はおばちゃん達の家で漬けたものだ。

このカレーと漬物を食べるだけでもイベントに参加した意義があるのだ。

佐久間カレー.jpg

心のバランス

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今日は友人の娘さんの結婚披露宴に招かれた。友人夫妻とは長い付き合いで彼らの娘さんとも何度も一緒に過ごした事がある。それはずいぶん昔の話で彼女が幼稚園に通うような頃の話だ。その娘が結婚してその夫を披露してくれる、おお花嫁のなんとかわいらしい事か。

そういうめでたい日の同じ時間にタイガースはいいゲームをしながら継投の失敗で満塁ホームランを浴びて負けてしまった。めでたい席の同じ時間にタイガースは負けたのだった。なんと悲しい事か。

ところが、同じ時間帯に行われていた将棋の藤井聡太四段が勝って連勝記録を27に伸ばした事を知った。将棋はほとんど指さないのだが中学生棋士には注目していたのだ。なんとすごい事か。

今日はいい事が「2」で良くない事が「1」なのでいい日だったに違いないのだ。結婚披露宴.jpg

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島田の蓬莱橋周辺を歩いた。蓬莱橋は世界で最も長い木造歩道橋らしい。JR島田駅から歩いて15分ほどの所に大井川が流れている。蓬莱橋はこの大井川に架かっている。

大井川と言えば江戸時代の大井川の渡しで有名だがこの橋は昔の東海道から少し下流に架けられている。明治になって地元の人の生活橋として架けられたと看板に書いてあった。


静岡県内を新幹線で横断するとき西から天竜川、大井川、安倍川、富士川の鉄橋を渡る。いずれも1kmほどの川幅がある長い鉄橋だ。私の脳内地図ではそれらの川はいずれも北の山地から南の遠州灘や駿河湾へ、脳内地図の上から下へ流れている、そういう思い込みなのである。


だから島田駅から大井川へ行くには、たった今大井川を渡った東海道線に沿って戻ればいいはずである。要するに西に向かって行けばいいと思ったのだが実は南に向かっていてそのまま大井川の堤防に着いた。

南に向かうと川に突き当たるという事は川は東西に流れているのか、その通りで大井川は東西に流れていた。


北から流れてきた大井川は東海道線の鉄橋をすぎた辺りからぐぐっと曲がって東に向きを変えL字型に流れる。8kmほど行った所で斜め45度南に向きを変えて駿河湾に向かう。地図における大井川の流れ方を言葉で説明すればこのようになる。


しかし一度頭の中に作られた地図はリセットするのが難しいようで蓬莱橋の真中に立ってもこの川は南北に流れているとしか考えることができなかった。

人間の思い込みとはかくも頑なのだなあと実感する。

袋綴じの魔法

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学生時代の想い出。

あのころ友人たちとミニコミ雑誌を作っていた。ミニコミタウン誌というのが流行だしたのは多分その頃ではないかと思うのだがその記憶は確かじゃない。でもミニコミタウン誌というのは活字で印刷されていて雑誌という体裁をしっかりと整えていた。


我々が学生時代に作っていたのはそういうものじゃなくて手書文字の手作り雑誌だった。

その手書き文字にも2種類ある。いわゆる普通に書く文字とガリ版文字といってガリ版用に開発された独特の書体を使ったものがあった。

ガリ版と言ったって今の人には通用すまい。ま、いずれにしてもそういう印刷技法があって小さい文字でも視認性の高い文字の形(今で言うとフォントだな)が開発されていた。

話がずれるけれども説明するとその文字の特長は、句読点や濁音半濁音の記号をはっきり書き、ひらがなでも「は」とか「な」のようにくるりと回る部分は大きく書く、字画の多い漢字は草書体のように簡略化するのだが、草書体のように縦書き対応ではなく横書き対応になるように工夫されていたのだ。


個人的な意見なのだが、このガリ版文字を中学・高校生の女の子が書くと丸々っとした変体少女文字になった。この当時の学校配布のプリント類は全てガリ版で作成されていたのでその書体に少なからず影響されていたのだ娘らは。テスト用紙だってガリ版文字だったのだから。あの変体少女文字というのはガリ版文字の進化版ということなんだな実は。


ミニコミ雑誌の印刷の話だった。ガリ版でない印刷方法というのが青焼きコピーと言われていた方法で正式にはジアゾ式湿式複写と言うらしい。トレーシングペーパーに濃いインクで文字や画像を書き、青焼き用感光紙と重ね合わせて複写器械に通すという方法。文字だけならガリ版印刷という方法が最も安価であったのだがガリ版はイラストや漫画の印刷には不向きだった。ガリ版で「絵」を紙に書いたように再現するのは不可能に近い事だったのだ。

その点、青焼きという方法は塗りの濃淡まである程度再現してくれるので漫画やイラストを印刷する方法として最高のコストパフォーマンスを示したのだ。


私はその頃大学の漫画同好会に所属していたのだが同好会では会としてジアゾ式の青焼きコピー機を所有していた。同好会の会誌「ビーグル」を印刷するためである。当時の各大学の漫画サークルや漫画研究会は青焼きの会誌を作成していたのでほとんどのサークルは自前の青焼きコピー機を持っていた。コピー機のメーカーは「三田工業」だった。他のメーカーもあったのかも知れないが私の所属していたサークルのコピー機は「三田」だった。


ジアゾ式複写は薬剤が塗られた紙を感光させて画像を転写する。そういう機構上の制約で片面にしか印刷できない。従って印刷されたものを製本するときには真中で半分に折って袋綴じにするのが普通である。


コピー機の前に座って黙々と感光紙と原稿を重ねて器械に送り込む。刷り上がった紙は少し湿っている。乾いた紙を皆で半分に折り、それから一ページずつ重ねて丁合いし、小口をそろえて大きなホチキスでガチャリと留めるのである。漫画サークルの部屋の風景とはこんなものであった。


出来上がった会誌は袋綴じなのでノンブルの示すページ数の倍の紙の厚さがあった。分厚い広辞苑が知識の殿堂のように見られるのと同じで分厚い会誌はすごく重厚な感じがしたものだった。まあ、自分たちの創作の結晶であるからそう感じてもいいのだが、半分は袋綴じによる底上げ効果もあったということを今冷静に思い出している。


あのころ自分たちが作った会誌を見ながら、自分がすごい才能を持っているかも知れないという妄想をかき立てる事ができたのは袋綴じによる二倍の厚さ効果があったのかも知れない。


大人げないこと

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一昨日、知人からメールがあって家へ来ないかという誘い。

この知人とは碁敵の関係にある。その彼はこの年明けから体調を崩していた。大好きな酒も断って健康に留意しているのだが一向に体調が戻らないらしい。体調が悪くなってから全く出歩かなくなり、すっかり気鬱になって閉じこもっていたらしい。


私は彼と2?3ヶ月に一度くらいの割合で酒を酌み交わしながら囲碁を打っていた。ビールを飲みながら2?3局打ってそのあと彼の行きつけのスナックでカラオケを歌うというのが定番となっていた。

私はそのスナックへは季節ごとにしか行かないので「四季の男」と店のママからはよばれているのだ。


その彼がほぼ半年ぶりに囲碁を打ってカラオケで歌おうという気分になったらしい。

私は今日夕方の早い時間に彼の家へ出かけた。ちょうど野球中継を見ていてゲームが佳境に差し掛かるときだったが約束なので仕方がない。


彼の家でいつもの通りビールを飲みながら碁を打った。

碁の力はほぼ互角でいつも勝ったり負けたり。ところが今日は私が連勝した。彼は病み上がりで調子が出ないのだろう。

いつもならそのあと連れ立ってスナックへ行って歌うのだが今夜は出かけたくないと言う。私はそのまま帰ってきた。

大人げなく囲碁に連勝した事で病み上がりの彼をさらに傷つけてしまったのか、すこし心が傷んだ。

今夜の話題はずいぶん昔のことについてだった。

1995年に我々が日本SF大会をこの町へ誘致し見事に展開したことは我らの誇りでもあるし懐かしい想い出でもある。

イベントの開催、なんせ有料で1500人を集めたのである。それはそれで大変な事だったけれど当時も今もこの町の中では全く評価されていないのが残念である。

そういう事を評価できない狭量さがこのまちの持ち味とでもしておこう。この町ではおたく系のイベントは白眼視されていた。いまどき白眼視なんてことがあるのだろうか、いぶかる人も多いだろうが白眼視というのは露骨な強い視線のほかに知らぬ振りをするという「あからさまな無視」という視線も含まれている(それが白眼視じゃないのかと言葉に厳しい人は指摘するかも知れないが、そこは見なかった事にしてほしい)。


当時この町に大きなイベントホールと会議施設と展示場の3点セットができたばかりだった(厳密にはそれにホテル(宿泊施設)がはいるのだが)それらを余す事なく利用するイベント、日本SF大会を開催した。これってすごいことなのだけれども、いちいち言うと自慢話に終わるので詳しくは語らない。


今夜はその裏話に花が咲いた。それは当時始まったばかりのテレビ東京の「何でも鑑定団」をイベントの話題作りに誘致しようという計画のことだった。

いろいろあったけれども我々は「何でも鑑定団」の誘致に成功してアクトシティ展示イベントホールで録画が行われることまでやったのだ。

そのときの鑑定団のテーマは「SFグッズ鑑定大会」(だったような)でそれにまつわる品々が登場した。我々の仲間の一人も偶々手に入れた「2001年宇宙の旅」の上映フィルムの一コマを鑑定に出した。

「SFグッズ鑑定」は結構評判をとり視聴率も良かったらしい。で、翌年の北九州小倉で開催されたSF大会でも同じように番組制作されたらしいのだがその後「SFグッズ鑑定」は行われていない。なんでも番組に出された鑑定品に犯罪にまつわる疑惑がつきまとったらしい。

この後日譚はSF界の裏話に詳しいF田氏とH村氏の話。

そういう世間話。

日記ももたつく

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大洞院.jpgネットに繋がるシステムが簡単になって、料金も手頃になって誰しもがネットで日常の動きを報告しはじめたのはこの世紀に入るほんの少し前の事だったよな。

私もホームページで日記を綴ったのを昨日の事のように覚えている。


日記を書くと言おうか日々の記録を残すと言おうか、何か自分の生きた痕跡を残したい人間の本能のような行為を何も考えずにやっていたのだ。


だってその当時、他人の目に触れる「書かれたもの」は一つの創造作品のように考えられていたのだから。違うな、考えられていたという一般的な事ではなくて私がそういう風にネット上の日記のことを捉えていたのだ。


その延長でずっとネット上で日記を書いていた(ものすごくいい加減な非連続な日記だったのだが)のだがその日記を書き込んでいた無料サービスが閉鎖される事になってそのままネットでの日記も書かなくなった。


この度、二年以上のブランクがあって日々の記録をネットで書くことを再開しようとしているのだが戸惑う。TwitterやFacebookがあるこの世界。ここに書く事の意味は何か、と考えてしまうと下手な筆もさらにもたつくのである。


とりあえず妻と森町へ行ったことを写真として残しておこう。

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